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文久2年9月9日(1862.10.31)
【江】幕府、水戸藩主徳川慶篤に武田耕雲斎・大場一真斎の家老復職を勧告
【京】中山忠光、岩倉らの処分を関白に迫ることを決意

■水戸藩
【江】文久2年9月9日、総裁職松平春嶽・老中板倉勝静は水戸藩主徳川慶篤に尊攘改革派(斉昭派)家老の武田耕雲斎・大場一真斎・岡田徳至の復職を勧告しました。

武田らは藩内尊攘改革派(斉昭派)であり、安政の大獄時に隠居を命じられました。水戸藩では、万延元年(1860年)、斉昭の死後、盛り上がった尊攘激派の運動を抑えるため、彼らを一度、復職させました。しかし、翌文久元年に激派による東禅寺の英国公使館襲撃事件が起り、彼らは責任を負って謹慎に処せられていました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.10.27)
関連:幕末水戸藩小史

■公武合体派排斥・暗殺
【京】文久2年9月9日(1862年10月31日)、中山忠光は、(天誅は中止し)、関白に岩倉具視らの処分を迫ることを決めました。

前日の9月8日、中山は初対面の武市に「四奸ニ嬪」天誅の助力を依頼していました(こちら)。この日の夜、再び武市の寓居を訪問した忠光は、父中山忠能(大納言・議奏)に決心を打ち明けたことを伝えました。忠光が天誅を許可せねば自殺すると言い切ったところ、忠能は<そこまで思いつめているなら止めないが、私に刺したのでは暴挙といわれるだろう。まず、彼らの罪を訴えて朝廷に処分を迫り、容れられなければ、そのときは手を下してもよい>と言ったそうです。忠光はその言に従い、とりあえず天誅の決行は中止し、明10日に、関白に迫ることを決めたそうです。これを聞いて、一同、安心したそうです。

参考:『維新土佐勤王史』(2003.10.27、11.2)
関連:■テーマ別文久2「公武合体派排斥・「天誅」」 


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